文化勲章受賞 吉川英治 生誕100年記念専用箱入『籬:まがき』門と籬の文字と絵の扇子(幅約45丈27cm/胡麻竹製飾り台兼 掛け具付 未使用

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とても粋な、文化勲章受賞 吉川英治 生誕100年記念専用箱入『籬:まがき』門と籬の文字と絵の扇子(幅約45丈27cm/胡麻竹製飾り台兼 掛け具付、未使用ですが新品ではありませんので、詳細はご了承ください!お気に召した方はいかがですか?
他にもいろいろと出品しておりますので、そちらも是非ご覧ください!


下記をご参照ください。
吉川英治氏の経歴
様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。

経歴編集

生い立ち編集
1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市中区山元町2丁目18番地付近)[1]に、旧小田原藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっている。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り箱根山麓で牧畜業を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、寺子屋のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、高瀬理三郎に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると刑務所に入れられ、出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。

山内尋常高等小学校に入学。当時騎手の馬屋に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳の頃から雑誌に投稿をするようになり、時事新報社の『少年』誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこの頃で、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳の時、年齢を偽って横浜ドックの船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。


東京毎夕新聞社記者時代
1921年(大正10年) - 1923年(大正12年)
人気作家への道編集
1910年(明治43年)に上京、象嵌職人の下で働く。浅草に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこの頃から川柳を作り始め、井上剣花坊の紹介で「大正川柳」に参加する。1914年(大正3年)、「江の島物語」が『講談倶楽部』誌に3等当選(吉川雉子郎の筆名)するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って大連へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が講談社の懸賞小説に入選。1921年(大正10年)に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ『親鸞記』などを執筆する。


『神州天馬侠』執筆のころ下落合の家にて
1925年(大正14年)
関東大震災により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を講談社に送り様々な筆名で発表し、「剣魔侠菩薩」を『面白倶楽部』誌に連載、作家として一本立ちする。1925年(大正14年)より創刊された『キング』誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った「剣難女難」で人気を得た。この時本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、「坂東侠客陣」「神洲天馬侠」の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、毎日新聞からも要請を受け、阿波の蜂須賀重喜の蟄居を背景とした傑作「鳴門秘帖」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。

『宮本武蔵』の誕生編集
こうして巨額な印税が入ったが、貧しいときから寄り添っていた妻やすは、この急激な変化についていけず、次第にヒステリーになっていく。これを危惧し、印税を新居に投じ、更に養女を貰い家庭の安定を図った。こののち、『万花地獄』『花ぐるま』といった伝奇性あふれる小説や、『檜山兄弟』『松のや露八』などの維新ものを書く。しかし妻のヒステリーに耐えかね、1930年(昭和5年)の春に半年ほど家出し、この間『かんかん虫は唄ふ』などが生まれた。この頃から服部之総と交友を結ぶ。1933年(昭和8年)、全集の好評を受け、大衆文学の研究誌・衆文を創刊、1年続き純文学に対抗する。松本学の唱える文芸懇談会の設立にも関わり、また青年運動を開始し、白鳥省吾・倉田百三らと東北の農村を回り講演を開いた。1935年(昭和10年)『親鸞』を発表。同年の8月23日から「宮本武蔵」の連載を始め、これが新聞小説史上かつてない人気を得、4年後の1939年(昭和14年)7月21日まで続いた。剣禅一如を目指す求道者宮本武蔵を描いたこの作品は、太平洋戦争下の人心に呼応し、大衆小説の代表作となる。


英治夫妻
1937年(昭和12年)
1937年(昭和12年)、やすと離婚、池戸文子と再婚する。1939年2月より「新書太閤記」を連載。7月の「宮本武蔵」完結後、8月より「三国志」を連載。個人を追究したものから、2作品は人間全体を動かす力を描こうとしているのがうかがえる。『宮本武蔵』終了後も、朝日新聞からは連載の依頼が続き、「源頼朝」「梅里先生行状記」など歴史に名を残す人物を描いた作品を発表した。

1942年(昭和17年)、海軍軍令部の勅任待遇の嘱託となり、海軍の戦史編纂に携わっていた。山口多聞、加来止男の戦死を受けて、「提督とその部下」を朝日新聞に執筆し、安田義達の戦死後は「安田陸戦隊司令」を毎日新聞夕刊に連載している[2]。またこの年には日本文学報国会理事に就任した。


吉川英治
1939年(昭和14年)夏
敗戦後の活動編集
敗戦後は、その衝撃から筆を執る事ができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただし、この頃、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。

1949年4月11日、東京財務局が発表した所得番付では、作家の中では最高額の250万円を記録している[3]。

1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞(1953年)を受賞[4]。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこの頃身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。「私本太平記」は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。1960年(昭和35年)文化勲章受章。しかし通俗作家と見なされ、芸術院には入れられなかった。

「私本太平記」の連載終了間際に肺癌にかかり、翌年夏に悪性腫瘍が転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺癌のため築地の国立がん研究センター中央病院で死去。享年70歳。法名は、崇文院殿釋仁英大居士。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時叙勲)。疎開先だった東京都青梅市に、1977年に開設された吉川英治記念館がある(入館者減少により、公益財団法人吉川英治国民文化振興会の開設としては2019年3月20日をもって一旦閉館休止[5]、2020年9月7日に青梅市の施設「青梅市吉川英治記念館」として再開館した[6])。なお東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。
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