仙台藩13代藩主・伊達慶邦(よしくに)夫人・伊達千佐(ちさ)・自筆「百人一首」の和歌
元々は、茶会の「茶掛」として掛軸に表装されておりました。
原本に使用されている高級和紙に「すかし模様」が入る極めて超高級な仕様です。
その後、色紙額に表装された後、海外展示の際に「額縁」に装丁されております。
伊達千佐(ちさ)の和歌は「ちらし書」と呼ばれる書法です。文字を散らして布置するわが国独自の書き方です。この書法の歴史は平安時代の康保3年(967)の「紙背仮名消息」(滋賀・石山寺)、同じく平安時代の公卿・藤原公任(きんとう)自筆『北山抄』「仮名消息」(京都国立博物館)が知られております。各行に高低の変化をつけ、流暢(りゅうちょう)に続く連綿はきわめて美しいもので「百人一首」の書法として平安時代の公卿などの間で広まり、その後大名家の姫君の間で用いられておりました。
自筆中の角印は、伊達慶邦の夫人・千佐(ちさ)の(印譜)
「操」の押印の解釈について
各和歌の末尾等に朱印で「操」という1文字の押印があります。「操」は重要な「百人一首」の中の概念として用いられることがあります。節操、特に男女間の変わらぬ愛や誠実さを示す場合があります。特に崇徳天皇の「瀬をはやみ 岩にせかるゝ 滝川のわれても末に あはむとぞ思ふ」の和歌は「恋人への操を守る心」のを表す歌として説明されことがあります。このことから、和歌を書いた伊達千佐は、仙台藩主・伊達慶邦(よしくに)への恋の思いを示すために「操」という押印を入れたとの解釈が江戸時代からなされております。
《有名な唐詩選の漢詩と篆書体の高度な線刻技術》
原本自筆には、中国唐代の漢詩人・張枯(ちょうこ、792頃853頃)漢詩。唐代中期を代表する詩人の一人です。字は承吉(しょうきつ)。清新で情景描写に優れた詩風で知られる。名前の「枯」の字は正しくは「示」偏に「古」の旁(つくり)。漢詩は『唐詩選』楽府題の有名な漢詩の一つ。長江(揚子江)を旅する人の旅愁を詠っている。文字は篆書体の微細な線刻によるもので米粒に筆で文字を描く技法と共通しております。印材に髪の毛ほどの極細な彫刻刀で描く極めて高度な技術です。
《篆書の漢文・読み下し文・現代語訳文》
篆書の漢文は「亭亭孤月照行舟 寂寂長江万里流 卿国不知何処是 雲山漫漫使人愁」
読み下し文は「亭亭(ていてい)たる孤月(こげつ)行舟(こうしゅう)を照らし 寂寂(せきせき)たる長江(ちょうこう)万里(ばんり)に流(なが)る 卿国(きょうこく)は知(し)らず何処(いずこ)か是(これ)なる 雲山(うんざん)漫漫(まんまん)人(ひと)をして愁(うれ)えしむ」
現代語訳文は、「空高く、ただ一つ浮かぶ月は漕ぎ行く舟を照らしている。ほかには舟の姿もなく、静まりかえった長江は、万里にわたって流れ続ける。わがふるさとは、いったいどのあたりなのだろうか。見えるものはただ、はてしもない雲と山ばかり、それが私の心を憂愁におとしいれる。」
伊達千佐(ちさ)は、仙台藩13代藩主・伊達慶邦の夫人である。千佐(ちさ)は、和歌や漢詩の素養もある教養のある女性として知られておりますが、「百人一首」を記す際、漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。使用されている和紙には「複数」の和紙を重ねると同時に「すかし」模様が入っており当時の高度な技法を用いた大名家に特徴的な豪華なものであることが「断層写真」を見るとよくわかる。
出品した「百人一首」自筆の内容(原文の読み下し文)は次の通りです。
「山邉赤人(やまべのあかひと)」
「たこ(田籠)の浦(うら)にうちいて(出)ゝ見(み)れはしろ(白)妙(たへ)乃(の)
ふし(富士)の高(たか)ね(嶺)に雪はふ(降)りつゝ)
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」(教科書仕様)としております。
(2)・出品した「百人一首」自筆の内容(原文の現代語訳文)は次の通りです。
「山邉赤人(やまべのあかひと)」
「田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺に
しきりに雪が降っていることだよ。」
現代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大学名誉教授)
(3)・出品した「百人一首」自筆の内容(英訳文)は次の通りです。
《山邉赤人》
As I come out and look up
from the coast of Tagonoura,
the pure white snow keeps falling
on the lofty peak
of Mount Fuji
英語訳文(英文)の出典:『100 Poets: Passions of the Imperial Court』
Michael Dylan Welch(百人の詩人・宮廷の情熱)《2008年》
(4)・出品した「百人一首」自筆の内容(中国語訳文)は次の通りです。
《山邉赤人》
田子浦前抬望眼,
且看富士雪
備考・三十六歌仙・「山邊赤人(やまべのあかひと)」は、奈良時代の歌人。制作年の知られる歌はすべて聖武天皇代の作である。神亀元年(724)の紀伊国行幸、同二年の吉野行幸・難波行幸、同三年の播磨国印南野行幸、天平六年(734)年の難波行幸、同八年の吉野行幸などに従駕し、土地讃めの歌を作る。伊予温泉や勝鹿真間、田子の浦などで詠んだと思われる歌もあり、広く各地を旅していたらしい。閲歴は全く不明であるが、下級官人であったろうと推測される。また故藤原不比等邸の「山池」を詠んだ歌があり、藤原氏との深い関係が窺われる。三十六人集(歌仙家集)の一巻として伝わる『赤人集』は、大半が万葉集巻十の作者不明歌で占められており、万葉集抄出本と呼ぶべきものである。古来柿本人麻呂と並称された歌仙。大伴家持の書簡に記された「山柿の門」の「山」は赤人を指すと見る説が有力であり、古今集序では人麻呂と共に歌仙として仰がれている。
「額縁入原本」

(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」

写真によって大名の夫人らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
仙台藩13代藩主・伊達慶邦の夫人・伊達千佐(ちさ)の書体は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。小さな角印は、伊達慶邦の夫人千佐(ちさ)の落款。
原本自筆には、「亭亭孤月照行舟 寂寂長江万里流 卿国不知何処是 雲山漫漫使人愁」の漢詩文が押捺されている。唐の時代の有名な漢詩です。(内容は上記に記載)
参考資料:「山邉赤人」

出典・財団法人小倉百人一首文化財団・所蔵
「百人一首」原本の和歌番号36(清原深養父)に記されている仙台藩の藩印

写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
藩印の右上が「操」の印。左上4行が唐詩選の漢文(篆書体)
漢詩は「亭亭孤月照行舟 寂寂長江万里流 卿国不知何処是 雲山漫漫使人愁」。
唐の時代の有名な漢詩です。
唐詩選の篆書体の下の小さな印は仙台藩主第13代藩主・伊達慶邦の夫人・千佐(ちさ)の印。
「操」の押印の意味は和歌番号77番「崇徳院」の和歌に由来(詳細は上記に記載)
写真上右は仙台藩主(伊達家)正室・夫人一覧表の表紙。表紙の下は正室・夫人一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
「額縁裏面ラベル・仙台城復元写真」

上段は額縁裏面ラベル。下段の写真は仙台城の復元写真)。
「断層画像写真」

《断層画像写真番号(和歌番号と同じ)》
拡大画像によって大名の夫人らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
伊達慶邦の夫人で伊達千佐(ちさ)は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。
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仙台第13代藩主夫人・伊達慶邦の夫人で伊達千佐(ちさ)・自筆(直筆)「百人一首」を出品
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| 自筆者に関する説明 | 自筆「百人一首」自筆には、「千佐」の落款がある。
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| 自筆 |
自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。日本の和紙の場合、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がることが断層画像写真によって鮮明となります。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。自筆原本は茶会用の掛軸から外され海外展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
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| 寸法 | 「百人一首」原本の大きさ 和歌ごとに扇型のように形式が異なりますので写真でご確認ください。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。
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| 解読文 | 出品した書には、「漢文・原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を掲示し、平易に解読し読むことができるようにしております。
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| 稀少価値 |
所蔵経緯(来歴)
1・自筆「百人一首」には、仙台藩13代藩主・伊達慶邦の夫人・伊達千佐(ちさ)の押捺がある。
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| HP | 伊達千佐(ちさ)・自筆「百人一首」の和歌の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」
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