
身幅が広く豪壮な姿をしており、美しく詰んだ地鉄、刃文は凛とした美しい直刃を焼いています。鉾は大切先となっており、先重ねが厚く、頑健な造り込みとなっています。
長さ(75.4cm)もありながら、先端(先重6mm)まで全く厚みが抜けておらず、幅も驚異的な広さを維持しているため、手にした時の存在感と威圧感は凄まじいです。
元重が8mm、先重が6mmも残っているのは、明治の廃刀令以降も大切に保管され、ほとんど研ぎ減りしていない「超健全刀」である証拠です。
日本の武器・美術工芸の歴史における最高ランクの「豪刀・実戦刀」の生きた手本と言える、凄まじい博物館クラスの素晴らしい一振りになります。
詳細は画像にてよくご確認のうえ、ご入札をお願いいたします。
種別 刀
長さ 75.4cm
反り 1.7cm
元幅 3.5cm
先幅 2.8cm
元重 0.8cm
先重 0.6cm
重量 約1100g
目くぎ穴 2個
銘文
表 慶応二年八月吉日
裏 於東弐土佐藩左行秀造之
登録記号番号 宮崎県 第14670号
昭和四拾四年九月弐拾五日 交付
左行秀
伊藤五佐衛門の次男として文化十年(1813)、筑前国上座郡朝倉星丸村に生まれた。浪人であったためか伊藤姓ではなく、伯父の姓である豊永を名乗り、名を久兵衛という。
刀工を志して天保初年(1830)頃出府し細川正義の門人、清水久義に鍛刀の技を学んだのち、弘化三年(1846)行秀三十四歳の時に南海の雄、山之内家藩工、関田真平勝廣の推挙により土佐に下り水通町三丁目の関田邸で鍛刀した。
南北朝時代の左文字の末裔を自称し、『三十九代孫左行秀』と銘する作刀が存在している。
安政二年(1855)八月、師の勝広歿後、同三年(1856)五月に三人扶持で刀・鉄砲鍛冶両職で山之内家に抱えられ土佐藩工となる。同年名を『久左衛門』と改めた。
安政七年(1860)に出府して砂村の土佐藩邸(品川区東大井3丁目)に鞴を構えた。慶応三年(1867)夏、板垣退助との不和が元で土佐に帰還して名を『東虎』と改めている。
同時代の優工、固山宗次が終生備前伝の作品に固執したのに対して、行秀は相州伝の名工、源清麿と双璧とされて誉れが高い。また両工ともに備前伝から相州伝に転向を成し遂げた数少ない刀鍛冶であった。
作刀は明治三年(1870)で終わり、晩年は嫡子幾馬と横浜で暮らし、明治二十年(1887)歿、享年七十五歳。
行秀の高知城下における鍛錬場の関田邸からわずか十軒先には通称『饅頭屋長次郎』、土佐脱藩浪士の近藤長次郎(上杉宗次郎)がおり、徒歩五分の所に坂本龍馬の実家がある。龍馬や、その盟友である近藤長次郎(海援隊の仲間)は、若い頃によく行秀の鍛刀場へ遊びに訪れていたと伝えられている。
龍馬の兄、坂本直方は行秀に作刀依頼をしており、またそれを龍馬が譲り受けて所持していたとされています。
行秀の豪快たる作風は土佐人の趣向に合致したとみえて当時の尊皇攘夷の気風がもたらした軍備拡充の波に乗り山之内家の家臣からの注文が多くある。
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