「えっ、マンガ家の自宅に、遊びに行ってよかったの?」と疑問を抱かれた方もおられると思います。たしかに、当時は「〇〇先生に、はげましのおたよりを出そう」などとして作品ページの余白に自宅の住所が記されていました。
石森先生のお宅には、ときに数時間もお邪魔していたことがあり、夕食に帰らないのでうちの親が心配して先生に電話で尋ねたほどです。先生は、飲み物を出してくださるなど、たいへん懇意にしてくださいました。
これが、1985年、47歳での「石ノ森章太郎」への改名につながる。私はこのとき本人の、なぜ最初に「いしのもり」ですと、はっきりさせなかったのかという後悔の念を感じた。
「トリビア39」からの抜粋
(順不同)
トリビア3
石森章太郎の癖
桜台の新居へ遊びに行ったとき、石森先生が不在だったことがあった。そのときに、アシスタントの方が「先生の癖を、こっそりおしえてあげる」と次のような話をしてくれた。
「椅子の上にあぐらをかいて、上下にどすん、どすんと跳ねるんだよ」
トリビア31
《サイボーグ009》誕生の謎
世界旅行から帰って3年後、石森章太郎は《サイボーグ009》の連載を開始した。しかし、その誕生には、謎が多い。
1.『LIFE』をどこで入手したのか
石森は、「サイボーグ」という新しい概念を知ったのが、旅行の終わりに飛行機の中で読んだ『LIFE』の記事によってだったと述べている。
香港に着いたのが1961年10月30日なので、その日か11月1日のことになる。これに対し、当該の記事「Man Remade To Live In Space」が掲載されている『LIFE』は1960年7月(11日号)なのだ(『完全解析!石ノ森章太郎』による)。単純計算で、1年4ヵ月もの開きがある。
2.(省略)
3. 代わりの連載は何だったのか
《サイボーグ009》の構想を思いついた石森章太郎は、さっそく集英社の雑誌『日の丸』編集部に打診した。しかし、採用されず、代わりに新感覚のギャグマンガ《テレビ小僧》を始めたという。
しかし、これもまたつじつまが合わない。というのは、《テレビ小僧》は世界旅行より2年以上前の1959年6月号から連載が開始されている作品だからだ。しかも、それは1960年7月11日号の『LIFE』より前のことであり、したがって石森はまだサイボーグという言葉に出合っていないのだ。
トリビア2
結婚式の仲人
1964年に利子夫人と結婚した。結婚に際しては、予期せぬハプニングが起きた。仲人が現れなかったため、後日式を取り直しているのだ。仲人は、手塚治虫だった。『絆 不肖の息子から 不肖の息子へ』 (以下、『絆』) から引用してみよう。
「頼みに行ったときには大変こころよくお引き受けくださったのだが、なんとその後、手塚さんは僕らの結婚式のことをきれいさっぱり忘れてアメリカに遊びにいってしまったのだ。ただの招待客ならまだしも、仲人役が式のことを忘れてしまうとは、やっぱりすごい人物である」
トリビア25
8つのペンネーム
小野寺章太郎は、都合8つのペンネームを持っている。つまり、本名を含めると9つもの名前を持っていたことになる。
石森章太郎
本名で発表してもよかったのだが、ペンネームにしたのには理由があった。
当時『軍隊生活 兵営便り』など軍隊漫画絵葉書で活躍していたイラストレーターに小野寺秋風がいた。その絵柄が嫌いだったので、同じ苗字を避けたいと思い郷里の地名を借りた。
石ノ森章太郎
1986年、石森章太郎から改名。
赤塚不二夫との合作ペンネームは、石塚不二太郎・いずみあすかの2通りがある。
石塚不二太郎
《その仮面をとれ》(「若木書房」1957年)
なお、《その仮面をとれ》は、復刻版『マンガ家入門』の「ぼくの年度別作品リスト」には加えられていない。
いずみあすか
原稿がいつも「今日か、明日か」と締め切りギリギリ。そこから泉鏡花(いずみ・きょうか)と「あすか」を組み合わせた。
《ちりぬるを…》《きえていく星》《そしてミヤはいなくなった》《はるかなる国から来た少女》 (いずれも『少女クラブ』1958年)
中黒の入る「いずみ・あすか」は、赤塚不二夫との合作ではない《幻魔大戦》連載時にも、原作者として平井和正と併記されていた。
U・マイア
赤塚不二夫・水野英子と3人による合作ペンネーム
水野のM、石森のI、赤塚のAをつなげてMIA(マイア)とし、「うまいや」と掛けてドイツ風の名前にした。
《赤い火と黒かみ》《星はかなしく》《くらやみの天使》
南汀子
「みなみてね(皆見てね)」とも読めるが、その意図で作られたペンネームであると確証できる資料はない。女性マンガ家のようなイメージを狙ったことと、原作が八木基克であり自分ではないことから使用したとみられている。
《金時さん》 (『少女クラブ』1959年)
風田朗
風田朗(「かぜた・あきら」または「かぜた・ろう」とも読む)は、鈴木伸一のペンネームだが、《レインボー戦隊ロビン》で合作している。
トーマス・ショウ
海外のマンガ家のようなイメージを狙ったと思われる。
《MAC TOTUS》 (マック・トータス)(『ギャルズライフ』1978年)
トリビア4
同じ日に生まれた石森章太郎と松本零士(本名:松本晟「あきら」)
1938年1月25日。これが、石森章太郎と松本零士の誕生した日だった。
マンガ家に至る経過も、驚くほど似ている。
15歳
石森:「東日本漫画研究会」結成。
松本:《蜜蜂の冒険》『漫画少年』第1回漫画新人王受賞。本誌に掲載され、これが商業誌デビューとなる。
16歳
石森:手塚治虫を手伝う。《二級天使》連載開始(掲載は『漫画少年』1955年1月号)。
松本:《ミツ太郎都へ行く》など1回12コマを『毎日小学生新聞西部版』に3年間22回)掲載。
18歳
石森・松本:高校卒業
石森:《まだらのひも》など『少女クラブ』単発、のち《幽霊少女》『少女クラブ』連載。しばらく少女漫画誌での執筆が続く。
松本:手塚治虫を手伝う。
19歳
石森:《水色のリボン》など『少女クラブ』。
松本:《黒い花びら》『少女』。実質的なマンガ家デビューとなる。しばらく少女漫画誌での執筆が続く。
松本零士は11歳で納税促進漫画を『小倉市報』に、12歳で《打ったとたんに》を『毎日中学生新聞』に掲載している。頭角を現したのは松本が先だが、石森章太郎が18歳で『少女クラブ』に連載を持っていたのに対し、松本は19歳で『少女』に単発の掲載に留まっている。
この差が生じたのは、石森が高校卒業の直後に上京したのに対し、松本が卒業後ほぼ1年間九州に留まっており、地の利で石森が優っていたためだろう。
トリビア14
手塚治虫からの電報
藤子不二雄「手塚先生も最初は編集の人にベタとかホワイトをやらせてたらしいけど、そのうちにだんだんアシスタントを使いだした」
石ノ森章太郎「編集がたまりかねて、おれたちに電報をよこすんだよ。地方の投稿家に。突然、電報で呼び出されて、憧れの先生から電報が来たっていうんで行ったわけ。高校二年の時かな。そしたらどうも、編集者が電報を出したらしいんだ」(『漫画超進化論』)
トリビア19
3人による回想
姉が亡くなったとき、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、3人の記憶は混乱し、それぞれが微妙に異なる話をしている。いかに衝撃的な出来事であったかがわかる。
石森「救急車を呼んで、病院へ運んだ。安心して、トキワ荘へ戻った。眠れぬままに、赤塚と水野英子と3人で、近所の映画館へ行った。どうしても観たかったというわけじゃない。なんの作品だったかも忘れた。ただ、部屋でじっとしていたくなかったのだ。姉をひとり病院に残してきた罪悪感のせいだったかもしれない。部屋に戻ったら、病院から電報が来ていた。スグ コイ」
赤塚「石森と私は、慌てて救急車を呼んで、病院に入院させてひとまずことなきを得た。ふたりはそのまま映画を観に行った。井上靖《氷壁》が映画化され、大変話題を呼んでいたのだ。その夜、トキワ荘に戻ると、病院から電報が届いた。石森の姉さんの危篤の知らせだった」
水野「すぐタクシーでいつもの病院へ連れていった。入院させれば、もう安心だろうと部屋に帰って、石森さんから面白い映画をやってるから行かないかと誘われた。洋画3本立て。石森さんは、お姉さんが完全に助かるだろうと信じていたので、いつものようにリラックスして映画を楽しんでいた。イギリス映画《マダムと泥棒》の1本だけ観て帰ってきたら、階段の下に赤塚さんのお母さんが待っていた。病院から、お姉さんが亡くなったという知らせが来ていると告げられた」
トリビア38
デビュー作
石森章太郎のデビュー作は、公式に《二級天使》となっている。『漫画少年』連載作品だった。しかし、実は『漫画少年』には、《二級天使》連載開始の前年3月号に《狐のシッポをつけた兎の話》が掲載になっているのだ。クレジット名も石森章太郎となっているため、こちらが真のデビュー作だとする研究者もいる。
《二級天使》は、昭和30年1月号より連載が始まったが、『漫画少年』が同年10月号で休刊となったため、未完作となった。
トリビア9
上京
大量の不安と、少量の希望とともに出発した。その日の石森の心を象徴するかのような、春の大嵐だった。
そのとき、生まれて初めての背広にネクタイ姿だった。ネクタイは父のお古で、『絆』によると、背広は原稿料をはたいて自分であつらえた、とある。しかし、『章説・トキワ荘・春』では、仕立て直した親父の古背広となっている。『絆』は、亡くなる半年ほど前のインタビューに基づくものなので、こちらの方が記憶違いである可能性が高いだろう。
トリビア11
ラジオステレオ放送?
17号室は、石森の買い込んだ物であふれ返っていた。
ハイファイ(ステレオ)・テレビ・扇風機・サイホン式のコーヒー器具・テープレコーダー(オープンリール)・8ミリカメラ・映画フィルム・映写機
レコードは、クラシック、モダン・ジャズ、ラテン、ソウル、ロック…。これらは、近くの目白堂で購入したものだ。
その頃、民放ラジオの別々の2局が協力してある試みを行った。一方が右の音だけ、他方が左の音だけを同時に流してステレオ放送にしようというのだった。番組は、ハリー・べラフォンテのライブ。
これに興味を持った石森は、高価なラジオを2台購入し、それを聴いた。赤塚が音量調節係。石森が「ちょっと右が大きい」というと「ハイハイ」。
トリビア34
日本漫画家協会理事就任
石森章太郎は、1964年に日本漫画家協会(現・社団法人)が発足すると同時に入会し、また理事に就任している。しかし、理事に就任した年が正確に記載されている本・資料に、私は出会ったことがない。
ウィキペディアには「1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める」とある。これは、常務理事に就任した年だ。
その他、「1968年 日本漫画家協会の理事(現在は常任理事)になる」とか「1975年5月12日社団法人日本漫画家協会の理事に就任」あるいは「1986年」など諸資料には、さまざまに記載されている。
トリビア20
ペンネーム赤塚不二夫
本名は、赤塚藤雄。当時、不二家のペコちゃんが人気だったので、「不二夫」とした。
トリビア23
《鉄腕アトム》「電光人間の巻」
赤塚不二夫は、遊びにきた長谷邦夫に『少年』1955年新年号・別冊付録《鉄腕アトム》「電光人間の巻」を見せながら言った。
「これ、小野寺(のちの石森) 章太郎が手伝ってる(と思う)」
その根拠を話した。ヒゲオヤジがガスタンクを登っていくシーンで、ヒゲオヤジの顔に斜線が入っていること。手塚治虫は、こう描かない。また線が太い。これは、小野寺章太郎のタッチだ。
この時点で、赤塚はまだ小野寺章太郎を『漫画少年』の投稿欄でしか知らず、実際に会ったことはなかった。
トリビア26
つげ義春と赤塚不二夫
赤塚不二夫にマンガ単行本を描くよう勧めたのは、つげ義春だった。そのとき、つげはすでに単行本マンガ家になっていた。
赤塚が『漫画少年』に投稿をはじめたのは、上京した後、江戸川区小松川の化学薬品工場で工員として働いていたときだった。その作品に、つげ義春が興味を持った。『漫画少年』では、投稿欄に入選すると住所が掲載される。葛飾区に住んでいたつげは赤塚が比較的近くに住んでいることを知って、寮を訪ねた。
つげ義春も、直前までメッキ工場で工員を務めており、境遇も似ていた。ときどき遊びに行くようになり、赤塚に「単行本1冊を描いて持っていくと3万5000円くれる」とおしえた。
それを聞いた赤塚は独立を決意した。一人では心細かったので、『漫画少年』仲間のよこたとくおを誘った。よこたは、福島県の出身、平井のプラスチック工場でやはり工員を勤めており、休日に泊り込みで小松川の赤塚の寮に自転車で通っていた。
2人は、都電の停留場「西荒川」のすぐ近傍で共同生活を始め、そこにつげが通うようになった。
赤塚は、つげから紹介された若木書房へよこたと共に売り込みに行った。そこで採用されたのはよこただけだったが、つげが話していたもう一社の曙出版へ行き、採用された。
こうして、1956年描き下ろし単行本『嵐をこえて』で、貸本マンガ家としてデビューした。
3ヵ月かけて描いたが、2万5000円(あるいは1万5000円とも)にしかならなかった。しかし、これが契機となり赤塚不二夫と曙出版との長い付き合いが始まり、1970年代まで赤塚作品の多くは同社が単行本化した。
その後、赤塚不二夫、続いてよこたとくおがトキワ荘に入室。つげ義春も何度かトキワ荘を訪れたが、その雰囲気になじめず次第に距離ができていった。
トリビア28
壁村耐三
《ナマちゃん》誕生。このとき担当だったのは、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三だった。
後に、手塚治虫《ブラック・ジャック》を手がけ、編集長として200万部突破(1977年1月)とマンガ週刊誌のトップに立たせ、『週刊少年チャンピオン』の黄金時代を築いた。
藤子不二雄《愛…しりそめし頃に…》には、編集者・壁岩大造として登場している。
トリビア22
『漫画少年』投稿
『漫画少年』には、その後さまざまなジャンルで活躍する幅広い人たちが投稿していた。
横尾忠則・篠山紀信・筒井康隆・黒田征太郎・平井和正・和田誠・眉村卓・田名網敬一・水野良太郎など。
トリビア12
映画
映画産業の全盛期であり、映画館の数もピークを迎えていた。椎名町だけでも3館あった。石森らがよく通ったのは目白映画、それと池袋・新宿、また渋谷にも足を延ばした。石森は、出かけるときはたいていタクシーを利用した。
椎名町
目白映画 (松竹・東宝系)
長崎映画劇場 (東映系)
平和シネマ (洋画入り3本立てが多かった)
池袋人世座 池袋文芸坐 新宿日活名画座 渋谷東急名画座
赤塚不二夫《トキワ荘物語》(月刊『COM』)に「いつも石森におごってもらって映画をみてあるいた。それこそ食うものも食わずに」として、観た映画のタイトルが列記されている。引用してみよう。
[そのころみた主な映画]
《荒野の決斗》《美女と野獣》《靴みがき》《海賊バラクーダ》《モダン・タイムズ》《リオ・グランデの砦》《海の牙》《七人の侍》《ライム・ライト》《宇宙戦争》《花咲ける騎士道》《黄色いリボン》《文なし横町の人々》《赤い靴》《死の接吻》《波止場》《白雪姫》《虹の世界のサトコ》《ナポリの饗宴》《陽気なドン・カミロ》《野良犬》《エデンの東》《第三の男》《ゼンダ城の虜》《野菊の如き君なりき》《赤い風船》《暴力教室》《裏窓》《ローマの休日》《ピクニック》《やぶにらみの暴君》《蜘蛛巣城》《恐怖の報酬》《シェーン》《酔いどれ天使》《ピーター・パン》《七年目の浮気》《聖衣》《地球の静止する日》《肉体の悪魔》《ブラボー砦の脱出》《風と共に去りぬ》《これがシネラマだ》《ヴェラクルス》《終着駅》《わんわん物語》