【名刺】(写しのコピー) 石森章太郎「サイボーグ009」(第1シリーズ) 少年キング 昭和39年「マンガ家入門」昭和40年当時のもの Aセット

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AセットとBセットがあり、別々に出品しています。
【名刺】(写しのコピー) 石森章太郎「サイボーグ009」(第1シリーズ) 少年キング 昭和39年「マンガ家入門」昭和40年当時のもの Aセット
【名刺】(写しのコピー) 石森章太郎「サイボーグ009」(第1シリーズ) 少年キング 昭和39年「マンガ家入門」昭和40年当時のもの Bセット

この商品はAセットです。

Aセット
石森章太郎
【1965年の名刺】写しのコピー
【解説:1965年の石森章太郎】A4で20枚
 
故人・石森章太郎(石ノ森章太郎)について知るための史料(歴史的資料)です。現在の個人情報を得ることはできません。
 
石森章太郎(石ノ森章太郎)には、《サイボーグ009》の連載を開始し『マンガ家入門』を出版し、メジャーへの道を駆け上り始めた、たいへん重要な時期があります。
新宿のアパート時代です。
それは、椎名町のトキワ荘とあけぼの荘を出た後のことであり、かつ桜台の新居が完成する前、1965年(昭和40年)をはさむほんの2年間ほどのことでした。
しかし、プライベートでも、その地から利子夫人との新婚生活が始まっています。公私ともに特別重要な時期でした。

この名刺・写しコピーは、その当時の情報が1枚に詰まったきわめて貴重なものです。
これは、自宅を留守にするときに本人がドアに貼っていった名刺を、ファンだった私がその場で手帳に書き写してきたものです。名刺の実物は私も持っていません。
 
その後、桜台の新居が完成します。名刺は新しいものを渡されれば古いものは破棄されてしまいますので、この名刺を今でも保持している人は、なかなか見つからないでしょう。
 
 
この当時、私は中学生でした。
(桜台も含めて)石森先生のご自宅を時折、また中野時代・新宿時代の両スタジオゼロも訪ねていました。
 
「えっ、マンガ家の自宅に、遊びに行ってよかったの?」と疑問を抱かれた方もおられると思います。たしかに、当時は「〇〇先生に、はげましのおたよりを出そう」などとして作品ページの余白に自宅の住所が記されていました。
しかし、それとは別に多くの小中学生が遊びに行くきっかけとなったある事実があります。その件についても、《解説:1965年の石森章太郎》に詳しく記しました。
 
石森先生のお宅には、ときに数時間もお邪魔していたことがあり、夕食に帰らないのでうちの親が心配して先生に電話で尋ねたほどです。先生は、飲み物を出してくださるなど、たいへん懇意にしてくださいました。
描きかけの原稿を、徒歩数分の距離にあったアシスタント数名が仕事場にしていたアパートまで、届けに行ったこともあります。そのとき、アシスタントたちは刷り上がったばかりの雑誌をチェックしており、「ここ、ベタ塗り忘れてるな」というような話をしていました。
 
最近、石森先生やスタジオゼロについては、膨大な記録や回想が公開されています。ただ、そこには私が実際に見た先生やスタジオゼロとは異なる記述や間違いも多数も見受けられます。
 
1965年の名刺に印刷されている氏名は「石森章太郎」です。じつは、このペンネームには、ある問題が隠されていました。解説はその部分から書き起こしています。

 
【解説:1965年の石森章太郎】
 
石森章太郎と石ノ森章太郎
 
(一部を抜粋)
 
石森章太郎は、初めから「いしのもりしょうたろう」だった。
本名は、小野寺章太郎。
宮城県登米郡中田町石森…の生まれ。つまり、出生地名をそのままペンネームとした。
この地名は石森と書いて「いしのもり」と読む。つまり、石森章太郎は、じつは最初から「いしのもりしょうたろう」だったのだ。
しかし、誰にもそのようには読んでもらえず、そのうち「いしもり」でいいや、となってしまった。
 
これが、1985年、47歳での「石ノ森章太郎」への改名につながる。私はこのとき、石森先生の、なぜ最初に「いしのもり」ですと、はっきりさせなかったのかという後悔の念を感じた。
本人は「初心に戻る」ためと説明している。つまり、マンガ家生活を最初から「いしのもり」としてやり直したかったということだ。
周囲の者の証言によると、このころから、夜遅くまで付き合わなくなった、非常に疲れているように見えた、という。
 
石森先生は、1998年(平成10年)1月28日、悪性リンパ腫による心不全のため亡くなっている。
後になって、臨終の様子をTVで息子の小野寺丈が語っていた。この解説の最後に記しておきたい。
 
トキワ荘
住所:〇〇〇
あけぼのハウス
住所:〇〇〇
 
(一部を抜粋)
 
当時、私は中学1年生だった。トキワ荘に、石森章太郎先生を訪ねて行った。
 
入り口のところで、私は大家さんに出会った。
「石森さんは、越して行かれましたよ。もうだいぶ前のことです」と告げられた。
何と、雑誌には2年間以上も古い住所が掲載されていたのだ。しかし、おかげで私は実物のトキワ荘を見ることができた。
 
トキワ荘というと、後に著名になったマンガ家たちの梁山泊というイメージになってしまっており、マンガ家のみが暮らしていたかのような印象を持たれています。しかし、実際はそうではありませんでした。2階建てで、1階は一般の人たち、マンガ家が住んでいたのは主に2階の部屋ですが、2階にも一般人は入居していました。

石森先生は、トキワ荘から転出した1961年の終わり(公の記録では1962年となっている)の後も部屋は残し、1964年まで同じ椎名町内のアパート「あけぼの荘」(のち、「あけぼのハウス」)に住み、トキワ荘と行き来しながら仕事をしている。

自宅
住所:○○○○
TEL:○○○
 
(一部を抜粋)
 
新宿-秋葉原間の都電13系統に乗り、最寄りの「牛込北町」停留場で下車。交番で道順を尋ねてから向かった。

石森先生は、1964年に利子夫人と結婚し、ここに転居している。
結婚に際しては、予期せぬハプニングが起きた。ご存じでない方もおられるかもしれないので、簡単に記しておこう。
仲人が現れなかったため、後日式を取り直しているのだ。仲人は、手塚治虫だった。

また、この1964年12月には日本漫画家協会(現・社団法人)が発足し、それと同時に入会している。ウィキペディアには、1981より日本漫画家協会理事を務めるとあるが、これは誤りで1965年すでに理事に就任している。この点について、私は数10点の本や資料を渉猟したが、その年が正確に記載されたものは1点もなかった。
 
ご自宅は、このときもアパートで、先生の部屋は2階の一番奥だった。
利子夫人が応対に出られた。
「いま、キューピーという喫茶店で編集者さんと打ち合わせをしているから、そっちへ行ってみてね」と伝えられた。
その日から、時折先生のご自宅へ伺う日々が始まった。
 
喫茶店キューピー
 
(一部を抜粋)
 
キューピーは、街の小さなカフェという雰囲気の店だった。当時、このような店舗は、すべて「喫茶店」と呼ばれていた。
ドアを開けると、一番奥のテーブルで先生がこちらを向く形で座り、打ち合わせを行っていた。
その向こうはカウンターになっており、中にマスターがいた。
利子夫人が電話を入れてくださっており、石森先生は「そこら辺に座って、待ってて」と私に声をかけると、マスターに注文した。
「あの子に、レモンスカッシュをあげて」
 
キューピーには店のマッチがあり、箱に石森先生自筆でキューピーのイラストが描かれていた。私はそれを1箱いただいたが、いまは残念ながら紛失してしまっている。
 
石森章太郎は、半ば仕事場として喫茶店を頻繁に利用していた。
トキワ荘時代であれば、「エデン」
桜台時代であれば、「ドクサー」と「ラタン」がよく知られている。
喫茶店は、アイディアづくりやネーム(吹き出しの中のセリフ)入れに利用していた。つまり、石森作品の根幹部分は喫茶店で作られたといっても過言ではない。 
では、マンガ家人生の転機となった最も重要な作品《サイボーグ009》のネームと《マンガ家入門》の原稿は、どこで書かれたか。それが、ここ喫茶店キューピーなのだ。
にもかかわらず、キューピーに言及された本や資料はあまり見当たらない。短期間だったため、見落とされているのだろう。

スタジオゼロ
 
(一部を抜粋)
 
スタジオゼロには、中野時代と新宿十二社※時代があるが、それぞれ1度ずつ訪れた。
※十二社は「じゅうにそう」と読む。その一帯の古い地名。当時のマンガ家たちにとって、「西新宿」よりも「十二社」の方が自然だったため、このように呼ばれることが多かった。
 
スタジオゼロで私にとってなじみ深いものは、何といってもマンガの《オバケのQ太郎》だ。クレジットに「藤子不二雄とスタジオ・ゼロ」とある。
ちなみに、「スタジオ・ゼロ」と表記するのは、作品の上だけのことであり、会社としての正式名称は「スタジオゼロ」で、・ (中黒)は入らない。
私にとって何より楽しみだったのは、石森先生が描いたキャラを見分けることだった。
 
1. スタジオボロ
住所:○○○○
TEL:○○○
 
(一部を抜粋)
 
地下鉄・新中野駅 荻窪方面50m
これが、手帳にメモした道順だった。シンプルきわまりないものだったが、私は実際そのとおりに向かい、辿り着いている。わかりやすい場所にあったことが窺える。
先生方の姿はまったくなかった。数名のスタッフだけが仕事をしていた。
 
1階は、どこの街にもありそうな小さな八百屋になっていた。いや、なっていたのではない。そもそもそこは、八百屋だったのだ。八百屋の2階の倉庫がちょうど空いていてたので、スタジオとして借りた。ビルではない。
 
「スタジオボロ」の異名のとおり、中学生の私にも狭くて見劣りのする空間だと感じられた。そこは、元ボクシングジムだった。ボクシングジムは、夜逃げしたのだという。
 
2. スタジオゼロ
住所:○○○
住所:○○○ (住居表示実施後の住所)
TEL:○○○
 
(一部を抜粋)
 
新しいオフィスは、広くて明るいフロアだった。市川ビルは、当時その周辺で一番高さがあったそうだ。
ビル全体を借りていたわけではない。初めは3階のみで、マンガ家の先生方のグループと動画部の作業場を置いた。そこが手狭になってから、4階も借りて動画部を移動させた。

私が訪れたのは、中野から移転した直後のことだった。まだ、3階のみだったときのことだろう。というのは、奥に別の部屋があり風田朗(かぜた・ろう)先生がいらしたからだ。つまり、そこが動画部だったと思われる。
スタジオゼロは、その時々の経営状況によって使用するフロアやレイアウトを頻繁に変えていたようだ。さまざまな記録を読むと、私が見たスタジオゼロとは異なる記述によく出合う。

 たとえば、「パーマンのスタジオゼロ見学」(「小学館コミックス」昭和42年8月号)。それを元にした幸森軍也氏による紹介が著書「ゼロの肖像」にあるので引用してみよう。
「3階雑誌部の見取り図には、ドアを入って右側に応接室、左側が藤子スタジオ、その奥につのだらの仕事場。応接の奥が赤塚らで、最も広く描かれている。スタジオゼロは読者の見学も受け入れていたようで、第4土曜日の午後3時から午後4時までだそうだ」

私が見た昭和4010の様子は、こうだ。
3階入口から、手前右手にフジオ・プロの一角があり、左手に藤子スタジオの一角。フジオ・プロの奥ではつのだじろう先生が仕事をされていた。広いフロアの奥には前述した別室があった。
フジオ・プロは赤塚不二夫先生とアシスタント数名、また藤子スタジオは藤子不二雄両先生とやはりアシスタント数名、両セクションの大きさは同じ程度。つのだ先生のアシスタントの姿は見えなかった。
見学の制限もなかった。事前に電話連絡をするだけで、自由に訪れることができた。
 
この日、都合4枚の色紙をいただいて帰ったが、目の前で描いてくださったのはつのだじろう先生「ブラック団」と風田朗先生「レインボー戦隊ロビン」で、赤塚不二夫先生「チビ太とイヤミ」、藤子不二雄先生「オバケのQ太郎」は、遊びに来る子どもたちのためにあらかじめ作成してあったものだった。
 
「レインボー戦隊ロビン」の風田朗先生が、実はスタジオゼロ立ち上げの中心人物、鈴木伸一先生のペンネームだということを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
鈴木伸一先生は、藤子不二雄先生の作品によく登場する「ラーメン大好き小池さん」のモデルだといった方がわかりやすいかもしれない。
 
(以下、省略)
 
 
石森章太郎先生が亡くなった後、日本テレビ系列番組「知ってるつもり?!」で、臨終の様子を息子の小野寺丈(俳優:丈)が語っていた。記しておこう。
「目を、かっと見開いていた。次に目をつぶるときには、自分はこの世にもういないということを知っているかのように…。目からは、止めどなく涙が流れ落ちていた」

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