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Wikipedia↓力道山(りきどうざん、本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、出生名:金 信洛(きん しんらく、朝: )、1924年〈大正13年〉11月14日 (諸説あり)- 1963年〈昭和38年〉12月15日[1])は、日本の男性プロレスラー、力士。血液型AB型。日本統治下の朝鮮の咸鏡南道洪原郡新豊里出身。日本プロレス界の父と呼ばれている。
力士時代 編集 二所ノ関部屋に入門し[注 1]、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場し、優勝した羽黒山に敗れたが[4]、優勝旗手となる(最後の優勝旗手)。1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している[5][4]。 なお、この年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国、北朝鮮が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。1949年5月場所に関脇に昇進するが、場所前に肺臓ジストマに罹患したのが響いて大敗する。一年後関脇に復帰したが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。当時は表向きに病気による廃業と説明された[6]。「民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意した」という説が良く語られるが、場所別成績の通り、最後の出場場所は関脇で一点の勝ち越しにとどまっており、大関に昇進できるような星は残していない。ただし、幕内出場10場所のうち負け越しは1場所だけ、幕内勝率5割8分1厘は戦後の関脇どまりの力士の中では最高である。同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に取っており[注 2]、力士を続けていれば大関も期待できる逸材であった。 しかし、力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられており、師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えるのが妥当である[7][注 3]。相撲界から引退した時、百田己之助の戸籍に長男として入籍[注 4]。この頃から対外的には百田に倣い「長崎県大村市出身」と称した。
日本プロレス界の父 その後二所ノ関部屋の後援者新田新作[注 5]が社長を務め、当時横浜市本牧に本社があった新田建設に資材部長として勤務。次男の光雄によれば「建築現場の監督をしていた」という[8]。ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人プロレスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)[4]。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン(英語版)(フリーメイソン#関連団体も参照)」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズ(Bobby Bruns[9])ら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。 1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。修業をしたハワイのテリトリー(縄張り)は当時、プロモーターのアル・カラシックが支配しており、シュライナーズ・クラブの遠征、力道山のハワイ入りも含めて、日本とアメリカを交流する上でカラシックが承認を出していた。カラシックは、プロモーターのカルテルで当時「書かれない法律(Inwritten law[10])」と呼ばれたNWAの一員であり、後に力道山が日本でルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦したさいも、当時日本プロレスはNWAに加盟していなかったが、カラシックのルートからテーズを招聘しタイトルマッチを組むことができた。 なお、1953年、ハワイでの修行中にルー・テーズに挑むもののバックドロップを受けて敗れている[11]。 昭和の巌流島と呼ばれた試合。不意打ちの右ストレートパンチから張り手連打で腰から崩れ落ちた木村政彦の前に立つ力道山 翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレスを設立する[4]。日本プロレスはシャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる[4]。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず[注 6]、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った[注 7]木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる謎の試合に繋がっていった。 1954年 1954年 力道山の空手チョップ。 1954年12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリー「ハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという[注 8]。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり[12]、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な臆測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也による『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となった。 力道山の戦いを報じる街頭テレビに群がる視聴者たち(1955年) 1955年、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。同年、横綱東冨士がプロレスに転向した。この時期には、後援者であった新田氏の力道山を押さえ日本プロレスを実質的に手中におさめようとする動き [13]など、力道山にとっていくつかの危機があった。特に厳しかったのは、第1次プロレスブームが去ったことである。1957年頃は客が入らず、地方巡業では金の未払いもあった。そうした状況下、1958年8月27日、ロサンゼルスでルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。これによって下火になったプロレスブームに一気に火がついた。1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年、フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWAは、NWAから分裂してできた団体である)。力道山はテーズやパット・オコーナー、ビル・ミラーのようなストロングタイプともブラッシーやジェス・オルテガのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。 1958年4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与えたが、大木には韓国名を用いることを厳禁した[14]。 1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり…」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ(ありがとう)」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという[14]。 1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている[15]。なお、この試合では、「4の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフェリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという[16]。 後述の事件のため、結果的に同年12月7日、浜松での力道山&グレート東郷&吉村道明組対デストロイヤー&バディ・オースチン、イリオ・デ・パウロ組線が生前最後の試合となった[17]。 刺傷事件から急死 編集 池上本門寺境内の墓所と胸像 1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏んでないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、院長が知己であった山王病院に入院。手術は無事に成功するが再び体調悪化し12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。39歳没(諸説あり)。12月20日に葬儀が行われた[18]。戒名は「大光院力道日源居士」。墓所は東京都大田区の池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある“実家”百田家の墓所に分骨されている。 刺傷事件の顛末 編集 1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺傷事件の顛末が明らかにされている。 力道山の受傷当日となった12月8日、前日に浜松市体育館で試合を終えて夜行列車で早朝に東京駅に到着し、妻の田中敬子が東京駅まで出迎えて赤坂台町の自宅(リキ・アパート)に戻り、仮眠をとった。当日は大相撲のアメリカ巡業への協力要請の件で高砂親方(第39代横綱・前田山英五郎)との打ち合わせがあるため、自宅で会社関係者との打ち合わせと面談した後に赤坂の料亭「千代新」へ行き、饗応も兼ねて会合を持った。その際、若き日のアントニオ猪木[注 9]やグレート東郷、この日に羽田から帰国予定だったザ・デストロイヤーも同席していた。力道山は会合を切り上げて、午後9時にはTBSラジオの『朝丘雪路ショー』の収録に向かったが、既に力道山は泥酔して呂律が回らない状態であったことから収録が真面に成り立たず、放送がお蔵入りとなっている。収録後の午後10時半頃、力道山と東郷、筆頭秘書の吉村義雄(リキ・エンタープライズ専務)など会社幹部の8人でニューラテンクォーターに入店した[19][20]。 酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員の村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論し、口論となった。村田は「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放ち、懐中に手をやった。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山は「わかった。仲直りしよう」と提案するも、それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打したため、村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという[21]。 加害者の村田は、後に力道山の死を病院のベッドで聞いた。犯行の当夜、彼が所属する大日本興業の上部団体・住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けた村田は、右目裂傷の重傷を負い入院していた。経緯については、小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたのである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。なお、村田はその後、力道山が入院を拒んだ赤坂の前田外科にいたところを発見されて警察に逮捕されているが、前述の怪我の治療のため、同所で1年近く入院生活を送っていたとされる[22][20]。 死の真相 編集 力道山は受傷当日(12月8日)は赤坂の山王病院[注 10]で応急手当を受け、帰宅する[23]。その後、村田の所属団体の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという[24]。 しかし、症状が悪化したため翌(同月9日)未明に山王病院の501号室に入院する。聖路加病院から外科医長に来てもらい、精密検査の結果、小腸が4か所切れていたことから、同日早朝に十数針縫合する手術を受け、成功する[25]。この時点で全治2週間と診断された。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、山王病院の院長がタニマチであったこともあり、この暴力沙汰の顛末が表に出ないようしたためという。側近たちは、同じ赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったという[24][19]。 死亡に至る経緯は諸説ある。もっとも有名なものとして、梶原一騎原作の『プロレススーパースター列伝』のジャイアント馬場&アントニオ猪木編によれば、力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される状態にあった[19][注 11]。ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命じ、ついでに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であったが、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという[信頼性要検証]。力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたという者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない[26]。妻の田中敬子は「自分や看護婦が昼夜交代で付き添っていたので絶対にありません」と否定している[27][28]。その一方で付け人頭であった田中米太郎は、入院中の力道山からウイスキーを買いに行かされたことも後年に話しており、夫人や看護婦の眼を盗んではアルコールを摂取したり、或いは食べ物を食べていた可能性はかなり高い[19]。 力道山は普段から人よりも傷が治るのが早く、刺された直後にも病院へ行かず応急処置だけで済ませたことなどから、自身の身体を過信していた節がある。敬子によれば、力道山は退院後は正月に伊豆の川奈ホテル(静岡県伊東市)での静養を考えていて、病室でホテルを押さえる様に指示を受けていたという[19]。 術後の経過は順調であったが、受傷から7日目となる同月15日、腹膜炎による腸閉塞を起こしていたため、午後2時30分に再手術を行った。力道山はストレッチャーに乗せられ手術室に向かう際、妻の敬子に対し「どんなに金がかかってもいい。どんな薬を使ってもいい。最善の治療を頼むと先生に伝えておいてくれ。俺はまだ死にたくない」と言い残したとされる。この手術も成功したと報告されており、敬子は医師の勧めで一旦自宅に戻ったが、力道山はその後再び目覚めることなく昏睡状態が続き、午後9時頃に医師の知らせを受けて敬子が病院に駆けつけたが、既に危篤状態であったとされる。手術から約6時間後の午後9時50分頃、力道山の死亡が確認された。39歳没。看取った敬子は夫の死の現実を認識し、その場で気を失ったとされる。なお、今際の際に力道山が「三本の指を差し出した」という俗説が当時から伝わっていたが、吉村義雄やミツ・ヒライらの後年の関係者の証言で虚構とされている[19]。 力道山の遺体は翌16日午後に慶應大学病院の法医学教室に移されて司法解剖が行われた。慶應病院には付き人の田中と山本小鉄が同行して遺体に付き添った[19]。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている[22]。腸閉塞を起こした理由として執刀医によれば「(最初の手術の際に)腹部内に200~300ccの血液が流れ込み、腸内の内容物が溢れたことや、錆びたナイフで刺された際に入り込んだ細菌を完全に殺菌しきれなかった」事が要因と、力道山の死亡時に発表している[19]。解剖終了後の同日夕方に自宅に遺体が戻り、関係者による通夜が行われ、翌々日の18日に桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。葬儀は同月20日に池上本門寺で執り行われ、児玉誉士夫、正力松太郎、伴淳三郎、美空ひばりなど各界の著名人を含め、1万人以上が参列している[19]。 死因には異論がある。手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤を注射した後に気管チューブの気管挿管を失敗し、窒息したという医療過誤のためという[29]説もあった。なお、村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで「紛失した」として出されなかったという[22]。 しかし、2019年に、医療過誤説を否定する報告が出された[30]。気管挿管失敗は力道山の死から30年後に発刊された書籍での「現場に居た医学生からの伝聞」[29]であるとされていたが、この当時はそもそも市中病院で医学生が麻酔に関わった可能性がなく[30]、手術も麻酔も熟練した医師によって行われていたことが判明しており[30]、死亡当時の証言や記録にも気管挿管に関する記載が残っていないことから、医療過誤の可能性は低く、死因は当初発表通りの穿孔性化膿性腹膜炎からの敗血症性ショックが妥当とされている[30]。また、付け人であったミツ・ヒライによれば、刺される直前のオフにゴルフ場でプレイした際に、力道山が胸を押さえてうずくまる姿を目撃し、力道山から「誰にも言うな」と口止めされたと後年述懐しており、先の司法解剖でも内臓の状態が極めて悪かった事も明らかになっている[19]。